プレミアパブ編集部
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僕の家はウェールズにある。
ここはイングランドとの国境街チェスターから西に15キロほど入った「ハーデン」という小さな村で、中世の古城跡がある。
19世紀半ばに12年間英国首相を務めたサー・ウイリアムを輩出したグラッドストーン家のマナーハウスもある風光明媚な田舎だ。
「何故そんなところで暮らしているのか」
とよく聞かれるが、ハーデンには義理の母が生前生活していた。
長男が生まれた翌年の1999年の暮れ、子供を安心して預けられる母の近くに住んで社会復帰したいという妻の希望を叶える形で、在英日本人の大部分が居住しているロンドンから引っ越して来た。
まずこの村に来たことがリバプールをサポートし始める大きな理由になってはいる。
ウェールズと言っても、リバプールまでは直線距離にしてわずか20キロである。
小高い丘にある村から北を見下ろせば、遠くに港の街灯りも見える。実際リバプールからの移住者も大勢いて、ここは完全にリバプール文化圏内だ。
しかもマイケル・オーウェンが生まれ育った村でもある。
実際、彼は今も近隣に住んでおり、本人が奥さんと一緒に地元の小学校に通う娘を迎えに来ているのを何度か見たこともある。
僕がこの村に引っ越して来た前年、18歳のオーウェンはフランスW杯のアルゼンチン戦で独走ゴールを決め、ワンダーボーイの異名をほしいままにしていた。
無論、当時はリバプールの所属選手で、オーウェンは村の誇りだった。
しかし実際にリバプールをサポートしようと心に決めたのは、ハーデンに引っ越して来てから2年半後のことだった。
その訳、リバプールをサポートしようと決めるまでに時間がかかったのは、基本的に英国男子は自分で自分のサポートするクラブを選ばないからである。
生まれ故郷のチームを否応なしにサポートするのが本筋で、その伝統は父から子、孫、ひ孫という具合に綿々と受け継がれて行く。
フットボール熱の高い英国人の中に暮らし、そんな純粋な伝統を目の当たりにすると、外様の僕が
「自分はどこどこのサポーターだ」
と名乗りをあげるのはなかなか難しい。
しかし、2001年にプレミアリーグの取材を始め、自分にもフットボールを見つめる独自の視点が欲しいと思った。
それなら英国人と同じ視点が面白い。まずどこかのクラブを本気で応援することから始めるべきだと決めた。
そして運命の日がやって来た。2002年の3月19日の欧州CL戦。僕が生まれて初めてアンフィールドを訪れた日のことだった。
当時欧州CLはトーナメント・ステージが準々決勝からで、グループ戦が1次、2次と2度組み合わされていた。その第2次グループ戦の最終戦だった。
スタンドに出た瞬間、電撃的なものを感じた。
まさにしびれた。
凄まじい雰囲気だった。
この試合、リバプールがベスト8進出を果たすためには、フランチェスコ・トッティ率いる強敵ローマを相手に2点差勝利が不可欠だった。
場内にはその”頼む、願いだ、2点差勝利だ!”という4万人の張り裂けんばかりの思いが、ものすごい勢いで渦巻いていた。
「You never walk alone」
が、ギャリー&ペースメイカーのヒット曲であることは知っていた。
初回のコラムでも触れたが、僕はビートルズのマニアで
「マージービート」
と呼ばれた1960年代前半のリバプール出身バンドにも詳しかった。
当然レノン&マッカートニー作の
「ハウ・ドウ・ユー・ドウ・イット」
で全英チャート1位になったギャリー&ペースメイカーの存在も知っていた。
しかし、この歌がアンフィールドでこれほどの意味と意義を持ち、信じがたいほどの連帯を呼び込む歌だとは知らなかった。
4万人が揃って絶唱していた。感極まって泣いている男達も珍しくなかった。
彼らはその歌で
「今夜、どんな結果となっても俺たちは一緒にいる」
と誓い合っていた。
それと同時に
「我らに勝利を!」
という思いも止どめもなく、サポーター全員が目の前に掲げたスカーフで赤く染まったアンフィールドに溢れ出ていた。
こうした真剣な、献身的な祈りとでもいう念が、四方八方から僕の心に染み込んで来る。
あっという間に、全身が赤く染まる感じさえした。
ハーデンというリバプール文化圏に越してきたのだから、サポートするチームもリバプールだと思っていたいたが、まさにその通りとなった。
もちろん村にはマンチェスター・Uやマンチェスター・Cのファンも少なからず存在するし、エバートンという選択もあった。
ただ申し訳ないが、それが
「エバートン」
ではどうもピンとこない。
やはり初めから
「リバプール」
という名称が僕の心をとらえて離さなかった。10代の頃、猛烈に好きになったビートルズの出身地。
僕にとって
「リバプール」
という言葉の響きには特別な磁力があった。
マージービートの雄ギャリー&ペースメイカーの
「ユー・ネバー・ウォーク・アローン」
が連帯のテーマ曲。
それに加え、この本拠地の凄まじいまでの雰囲気。
即決だった。
本当にもう、一発でまいってしまった。
しかもこの日、リバプールは注文通り、2-0勝利を収め、決勝トーナメントに進出。
僕の感動を大きく増幅した。
こうして僕はめでたくリバプールの信奉者となったわけである。
けれどもそれは、例え日本人のにわかサポーターであっても、自分はリバプールが大好きだと宣言してしまうことで、それなりの挑発や侮辱を受け止める運命の始まりでもあった。
リバプール・ファンだと公言すれば、すぐに旧友のように分かり合える仲間ができる反面、
「なんだとお前、ぶっ殺すぞ」
(本当にそういう感じなので、この表現も仕方がない)
と、すごい形相で恫喝してくる敵もひっきりなしに現れるのだ。
以前にも記述したが、英国のフットボールは古の昔からこの国の男の感情を激しく揺らす伝統球技である。
しかも、現在でも他国との比較で、プレミアのフットボールは非常に荒っぽい格闘要素を含み、それが英国男子の血を沸騰させる最大の要因になっている。
この国のファンは何よりボールに立ち向かうフットボーラーの勇気に敬意を表する。
だからして、ファンの気質もかなり荒っぽい。
これまでにも英国のフーリガン問題は日本でも度々話題になったと思うが、その風評は極悪そのもの。
どうしてこんなに荒れ狂うのか、日本のファンには理解し難いところも多々あると思う。
けれども英国にいると、これも当然だと思う。
なぜなら、もともとフットボールはコミュニティ同士の代理戦争的な競技なのだ。
そして試合結果は男の優越を最終的かつ完全に決定する。
言わばいがみ合う隣町の学校同士が、喧嘩の強い男子を選び、果し合いをするようなものである。
ちょっと古くて申し訳ないが、
「男一匹ガキ大将」
というガキ大将がケンカを通じて次々に子分を増やしていき、ついには日本中の不良を従える総番にまで登りつめ日本を動かす男となる物語を書いた、本宮ひろ志の漫画の世界そのものだ。
果し合いの周囲には
「俺も出たかった」
と心底願う大勢の男子が敵味方に分かれ、声を枯らせて応援する。
汚いプレーには罵声を浴びせ、本当の勇気と強さを見せ、決闘場で輝く味方には、朗々と歌うようにその男子を名前を連呼する。
それがフットボールの原風景だ。
果し合いの熱が観客に飛び火するのは当然のことである。
酒と喧嘩とフットボールは英国男子の華、この三点セットは切り離せない。
だから
「喧嘩のどこが悪い」
という感覚で、英国でフットボールをめぐる諍いや暴力はどうしてもなくならない。
そんな喧嘩上等気質の男達とせめぎ合うのは、これはもう本当に壮絶で、シャレにならない。
まあ幸い、僕自身が暴力事件に巻き込まれたことはないが、最初の試練はリバプール・サポーターになってすぐ、近所のジムで訪れた。
2002年の初夏だった。
その頃の日課だったゆるい筋トレを終えて、大きなジャグジー風呂に一人で浸かっていた。
そこに男性4人が、ワイワイと話しながら入ってきた。
見慣れた顔が3人。
彼らとは同年代で、何度か言葉を交わしたことがあった。
配管工や大工の職人達で、気立ての良い連中だ。
しかしその日は見知らぬ顔の年配男性が一人加わっていた。
3人の顔見知りは笑顔で年配男性を囲むように取り巻き、愉快で楽しげな様子だった。
その4人の機嫌の良さそうな表情が、僕の一言でガラッと変わった。
最初は全く何の問題もなかった。
4人がジャグジーに浸かり、僕を含めて5人で話を始めた。
彼らは僕が日本人であることを知っていたので、自然と日韓W杯の話になった。
その流れで僕は足の甲の骨、中足骨を骨折したベッカムが本番に間に合うのかという話をしたが、彼はそんなことはどうでもいいという感じだった。
それで彼らがイングリッシュではなくウェリッシュであることに気がついた。
何となく気まずい空気になったが、気を取り直して、フットボールの話を続けたと思う。
しかしそんな気まずさは、僕が彼らの一人にどのチームのファンだと尋ねられ
「リバプール」
と答えた瞬間の険悪さに比べたら、可愛らしいものだった。
その途端、ジャグジーの水温がぐっと下がったような冷ややかなものを感じた。
男の一人がものすごい形相で
「リバプール?」
と僕の答えを反芻した。
その物言いには
「何かの間違いだろ、言い直せ」
という脅迫にも似た響きさえこもっていた。
そしてすかさず、
「正気かお前?誰の前でそんなことを言っていると思っているんだ?この方はな、あのケビン・ラトクリフの父上だぞ!」
と、まくし立てるではないか。
そんな名前、生まれて初めて聞いた。
その時の僕はまさに鳩が豆鉄砲を食らったような顔になっていたはずだ。
ケビン・ラトクリフ?
誰だそれ??
何がどうなっているのか、さっぱり分からない。しかし男がその後も滔々と僕を断罪するような語調で語り続けたので、少しずつ様子が分かった。
まず、彼らは狂信的なエバートン・サポーターだった。そしてケビン・ラトクリフというのは80年代のエバートン黄金時代の主将で、不動のセンターバック。
しかもウェールズ代表としても59キャップを誇る名選手だった。
そのケビン・ラトクリフはハーデンの隣村マンコットの出身で、このウェールズ人3人男の地元のヒーローでもあった。
それは僕だって初めからこのおじいちゃんがラトクリフの父親であることを知っていれば、恐れ多くて、目の前でリバプールのサポーターだなんて言わなかった。
でも知らなかったのである。
しかも聞かれたから答えたまでのこと。
それなのに血相を変えて非難しなくてもいいじゃないか。
けれども男の話は止まらない。
「リバプールがヘーゼルの悲劇を起こして、イングランド勢が5年間の欧州戦出場停止処分となったせいでエバートンがヨーロッパ・チャンピオンになれなかった」
「ラトクリフが主将として率いたあのエバートンこそ史上最高にして最強のチームだった」
「どうしてくれんだ!?」
「しかし何だってリバプールなんだ?」
延々説教である。
僕とすればほんの2か月ほど前にスタジアムの雰囲気に感動して応援し始めたクラブなのだが、彼らはそんなこと知ったことじゃない。
もちろん、その後、ジムで顔を合わせる度に
「このリバプールのクソ野郎」
と呼ばれた。
特にリバプールがひどい負け方をした時などは、嬉々としてなぶってきた。
いや、本当にエバートン、心底嫌いになりましたよ。
しかしこれはまさしくほんの一例で、相手はエバートン以外にもいる。
言うまでもなくマンチェスター・Uである。
正直、伝統のローカル・ダービー相手で、やたら闘志をむき出しにしてくるエバートンもうっとうしいが、成績的には全くリバプールの相手にならない。
黄金期、最強チームとか言われても、1980年代の優勝はわずか2回。
対するリバプールは優勝6回。最強はこちらの方である。
何を言われても、所詮向こうが格下。
そのように扱えばいい。
しかしマンチェスター・Uは違う。
心底憎々しい。
しかもつい最近(退官したのは2013年ですでに5年も前だが、フットボール的にはつい昨日のような出来事である)まで、
ファーガソン監督が気の遠くなるような長い黄金期を築き、一部リーグの優勝回数もついに18回のリバプールを抜いて20回とした。
したがってあの『トゥエンティ・タイムス』のチャントほど、我々がムカつくものはないのだ。
だからして、マンチェスター・Uサポーターがリバプールサポーターをいらだたせる常套句は
「プレミアリーグを優勝したことがない」
となる。
確かにリバプールは1989-90年シーズンを最後に、イングランド一部リーグ優勝から遠ざかっている。もう28年も前の話だ。それは現在のリバプール・サポーターにとって一番の泣き所である。
だからこそ向こうはそこを突いてくる。なんせ、ファーガソン監督は13回もプレミアを優勝しているのだから。
しかしこっちも負けてられない。
プレミアリーグ発足以前の優勝が無価値のようになじってくる思い上がったマンチェスター・Uサポーターには
「お前らにとってはジョージ・ベストやボビー・チャールトンそしてデニス・ロウがもたらした栄光に価値はないのか!」
と言い返す。
言わずとしれた1968年の欧州制覇を成し遂げたマンチェスター・Uのレジェンド3選手だ。
それに「プレミア、プレミア」と騒ぐなら、それ以前の優勝7回を数えるなと言いたい。
まあこんな小競り合いはほんの氷山の一角で、いさかいの一部始終をここにいちいちここに記したら、いくらネットだとはいえ、恐ろしい文字数になってしまうのでここら辺りでやめておく。
ともかく、生まれ持ってのサポーターという英国本場のサポーターからすれば、僕のサポート歴はまだ16年。
16歳のひよっこだ。とは言っても、こうした情け容赦ない敵と多々まみえたおかげて、
エバートン、マンチェスター・Uと聞けば条件反射的に「ガルルッ」と動物的なうなり声が出る程度には、
リバプール・ザポータートしての身構えはできているつもりである。
書き手
プロフィール
森昌利(もりまさとし)
リバプールサポーター。
1962年3月24日福岡県博多区生まれ56歳。フリーランスライター。
1993年3月、英国人女性と結婚して渡英。英国のサッカーならぬ「フットボール」と出会い、2000年12月より原稿を書き始める。
プレミア取材歴は今季で18シーズン目。英国在住25年ならではの視点で発祥国の燃えるようなフットボールを解読する。